【アメリカ誕生】アメリカ独立戦争についてわかりやすく解説します

【アメリカ誕生】アメリカ独立戦争についてわかりやすく解説します

 

イギリスに住んだことある人、旅行でイギリスに行ったことがある方ならよくわかるかと思いますが、イギリス人は紅茶が大好きです。

一方でアメリカ人ですが、アメリカ人はコーヒーが大好きです。

 

さて今日はそんなアメリカとイギリスの間で起こった「独立戦争」に関して説明していくのですが、イギリスとアメリカ(当時は植民地)が戦争になったのはこの「紅茶」が原因でもあります。

このときからアメリカ人は「紅茶の代わり」としてコーヒーを飲み始めて今に至るわけなのですが、本記事ではこの「アメリカの誕生」「アメリカ独立戦争」に関してわかりやすく解説していきます。

 

アメリカの歴史

 

今ではアメリカも「世界一の経済力と軍事力」と言われるように、世界トップの先進国でもあります。

しかしアメリカが建国したのは今からわずか250年前の出来事です。

 

かなり若い国ですね。

250年前になにが起きたかと言うと、アメリカ(イギリスの植民地)とイギリスの間で「独立戦争」がありました。

 

この独立戦争に勝利しアメリカが建国されるという流れなのですが、「アメリカがまだイギリスの植民地だった時代」から詳しく見ていきましょう。

 

大航海時代

 

15世紀半ばからヨーロッパでは「大航海時代」というのが始まります。

大航海時代とはヨーロッパ人によるアフリカ、アジア、アメリカ大陸などへの大規模な航海を行っていた時代です。

 

日本にも「鉄砲」や「キリスト教」など西洋の文化がポルトガルから伝わった時代でもあります。

戦国時代のことですね。

 

この時に「クリストファー・コロンブス」がアメリカ大陸を発見し、ヨーロッパからアメリカ大陸への入植が始まりました。

このへんに関しては以下の記事でもう少し詳しく書いているので、本記事のあとにでもおすすめです⇩

 

 

さてイギリスからアメリカ大陸への大量移住が始まったわけですが、イギリスからの移民は現在のアメリカ合衆国東海岸に住み着き始めます。

現在のカナダはまだフランス領だったのでフランス人、中南米はスペイン人、現在のブラジルはポルトガル人、このような具合でヨーロッパ人はアメリカ大陸を分けます。

 

今でもアメリカは英語、カナダの一部はフランス語、中南米のほとんどの国ではスペイン語、ブラジルはポルトガル語を話すのはこのような経緯からですね。

この時は飛行機も無ければ、大した船もないのに多くの人がこの未開拓地を目指してヨーロッパからアメリカ大陸に渡りました。

 

現代で言えば火星に行くようなものでしょうか。

もはや罰ゲームですね。

 

「生きていけるかもわからないような未開拓地になんでわざわざ行ったの?」ということですが、これには主に2つの理由があります。

 

①平等

②宗教の自由

 

この2つですね。

 

①の「平等」というのは、当時王政であったイギリスから平等を求める人々がアメリカ大陸に渡りました。

 

「私は王様でも皇帝でもない。この国に王はいらない」

 

これはアメリカ独立後に初代大統領になった「ジョージ・ワシントン」という人物の言葉です。

ジョージ・ワシントンは現在も続くアメリカの大統領制度の礎を作ったアメリカ最高の偉人ですが、このようにイギリスからアメリカに渡った人たちは「平等」を求めました。

 

その次に②の「宗教の自由」というのも、当時のイギリス国教会と対立したり、弾圧された人々がアメリカに宗教の自由を求めてアメリカに渡りました。

「メイフラワー号」というのが、それら宗教の自由を求めた人々を乗っけて現在のマサチューセッツに行った船の名前です。

 

当時ヨーロッパでは「カトリック」こそが絶大な権力を握り、「プロテスタント」は異端だとされていたからですね。

このような経緯から今でもキリスト教徒でもプロテスタントの人がアメリカには多く住んでいます。

 

植民地時代のアメリカ

 

このような過程を経て現在のアメリカ大陸がイギリスの植民地になったわけですが、当時の植民地は今とは比べ物にならないほど小さなものでした。

 

出典:アメリカの領土拡大

 

こちらの地図がアメリカの歴史における領土拡大の変遷になるのですが、この東側の赤い部分がイギリス植民地時代の領土となります。

この領土をよく「アメリカ13州」という言い方をします。

 

今では合計50州あるアメリカですが、当初は13州の領土からスタートしました。

 

独立戦争の経緯

 

当時のイギリスは世界一の経済力&軍事力を誇っていました。

 

そんなこともあり、イギリスは世界中に植民地を持っていました。

こちらが1921年の時の「イギリス帝国」の領土です⇩

 

出典:British Empire

 

これはイギリスが全盛期の頃の世界地図ですが、イギリスはこの大航海時代のあたりから世界中に植民地を広げていきます。

アメリカやカナダもそうですが、オーストラリア、マレーシア、シンガポール、インド、香港などの人たちが英語が堪能なのはこの植民地時代からのものです。

 

しかし問題なのが、植民地を経営していくにも莫大なお金がかかります。

当時スペインと戦争中だったイギリスですが、植民地化をしていくためにインドとも戦争を始めていきます。

 

さらにイギリスはアメリカ大陸に入植を始めるわけですが、当然そこにはもともと住んでいる人(インディアン)たちがいます。

このようにアメリカ大陸でもインディアンと戦争になっていき、アメリカ大陸の植民地化を同時に狙っていたヨーロッパの国々とも「利権争い」ということで戦争になります。

 

イギリスもかなりカツカツです。

そこでインドなどの植民地から税金を大量に徴収していくこととなります。

 

植民地への課税

 

当初イギリス本国はアメリカ13州に対しては課税をあまりしていませんでした。

インドなどの他人種、多文化の植民地とは違い、アメリカ13州に住んでいるのは同じイギリス人(白人)だったからです。

 

イギリス本国よりもむしろ優遇されていたレベルでした。

上でも書いてあるように、イギリスの財政が厳しくなっていくのと同時に植民地であったインドやイギリス本国の国民から大量の税金を徴収するようになっていきます。

 

そこで本国のイギリス人による不平が爆発しました。

 

「俺たちは高い税金を払っているのに植民地の人間はずるい」

 

こんな声が高まり、イギリス政府もアメリカ13州に対して課税せざる負えなくなっていきます。

しかしそこで怖いのが植民地による独立の動きです。

 

そもそもアメリカ13州に対して高い税金をかけなかったのは「独立されたらめんどくさいから」という理由だったので、イギリス政府もアメリカの植民地に対してはかなり弱腰でした。

そこでイギリス政府はアメリカ植民地に対して、事前通告なしで課税をしていきました。

 

残念ながらこれが逆効果になります。

当たり前ですね。笑

 

アメリカ植民地の人々は憤慨します。

「代表なくして課税なし」という有名な言葉がありますが、「課税するならせめて会議に参加させろ」ということで、この頃からアメリカの植民地では独立の雰囲気が高まります。

 

ボストン茶会

 

そこで課税の対象になったのが、「印紙税」や「紅茶」でした。

イギリス人にとって昔から紅茶は趣向品でもあり、生活必需品でもありました。

 

水道水が飲めない時代なので、殺菌作用のある紅茶は生活する上で欠かせませんね。

そこで植民地の人たちは紅茶にかけられた高額の税金を逃れるために、オランダなどの商人から紅茶を密輸するようになります。

 

これに手を打とうとしたイギリス政府は「イギリス東インド会社」にアメリカ植民地における紅茶の販売独占権を与えます。

これにより、税金をしっかり徴収できると考えたわけですね。

 

これに植民地の人々は怒ります。

地元の商人にとっては死活問題なので当然ですね。

 

「ふざけんな」ということで、ボストン港に停泊してたインド会社の船に民間人が夜中に乗り込んで、積んであった大量の紅茶箱を海に投げ捨てます。

英語では「Boston Tea Party」と言いますが、まさに「パーティー」のように紅茶を海に投げ捨てたわけですね。

 

上でも書きましたが、アメリカ人はこのときから紅茶ではなくコーヒーを代替品として飲むようになりました。

 

ボストン大虐殺

 

そんなイギリス本国による課税により緊張が高まっていた中、アメリカ植民地にいたイギリス軍と植民地の民間人の間で暴動が起きます。

ボストンにて、暴動を抑えようとしたイギリス軍が発泡し民間人を殺害します。

 

「ボストン大虐殺」と聞くと数百人〜数千人殺害したかのような印象を残しますが、実際にイギリス軍が殺害したのは5人の民間人でした。

植民地の独立派勢力がこの事件を無理やり「ボストン大虐殺」と名付け、あたかも「イギリス軍=悪」としたわけですね。

 

つまり独立派のプロパガンダでした。

これが見事に成功し、アメリカ13州全体で「イギリスから独立しよう」という気運が高まりました。

 

真珠湾攻撃や同時多発テロでもそうですが、アメリカ史ではこのように「大事件」を機に戦争に行くことがわりと「お決まり」でもあります。

 

1776年7月4日⇨独立記念日

 

1774年に13州の各代表が集まって「大陸会議」というのを開き、「もう一度イギリス政府に相談してみよう」ということが決まります。

しかし当然ながらイギリス側も応じてくれません。

 

翌年1775年に「レキシントンとコンコードにイギリス軍の武器庫があるらしい」という情報を得た植民地側はそれらの武器を手に入れようと試みますが、待ち伏せしていた民兵と撃ち合いになり多くの死者を出しました。

ここから独立戦争が始まります。

 

これが「レキシントン・コンコードの戦い」です。

さらに翌年1776年7月4日にアメリカ・13州の植民地はイギリスから独立を宣言します。

 

しかしこの時はまだイギリスとの戦争真っ只中でした。

すごいですね。

 

まだ勝ったとは決まってもないのに独立を宣言したということになります。

7月4日は今でも毎年「独立記念日」ということで国民の祝日ということになっています。

 

アメリカの勝利

 

植民地VSイギリス帝国という構図だけ見れば、明らかにイギリスが勝って当然かのように思いますが実際はそうでもありませんでした。

アメリカの勝利の要因となったのは言うまでもなく「士気」ですね。

 

「自由と平等」を手に入れるための「独立戦争」といえば士気が上がります。

子供や子孫のため、実際に民間人が立ち上がって「義勇兵」ということでイギリス軍と戦った人も多くいました。

 

というのも、当時からアメリカの植民地では銃の保持が自由でした。

このことから民間人が武器を持っていつでも戦うことができたわけですね。

 

これがイギリスとの戦争に勝った大きな理由ともなりました。

アメリカが今でも「銃の保持を自由」とするのはこのような歴史的背景があるからでもあります。

 

つまり「銃=自由・独立の象徴」でもあるわけですね。

 

イギリスの敗因

 

アメリカ大陸を相手に戦争をするとなると、なんといってもイギリス側に不利になるのが「遠い」という点です。

今とは違い飛行機などあるはずもないので、兵士や物資、武器、はたまた情報に関しても、いちいち伝達するのに大西洋を超えなければなりません。

 

またインドなどの植民地戦争とは違い、アメリカ大陸は「自国民」を相手に戦っています。

戦場で戦っているイギリス軍からしてみれば「殺したくはない」わけですね。

 

さらには武器などに関してもさほど差がない、むしろフランスなどの他国から輸入していたので植民地側の方が進んでいたというのが現実でした。

そして最後に最大のイギリスの敗因となったのが「フランスの援軍」です。

 

「サラトガの戦い」で勝利したアメリカに対して、フランスは援軍を送ることを決意します。

前々からフランスはイギリスに対して因縁があったからですね。

 

このようにしてアメリカはイギリスとの独立戦争に勝利しました。

ちなみにですが、ニューヨークにある「自由の女神」はフランス本国の方角を向いています。

 

これはこのときの援軍に対して感謝の意を表するためです。