【海外から見た日本】日本の運動会が異常な理由とその文化背景

【海外から見た日本】日本の運動会が異常な理由とその文化背景

 

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アメリカ人「日本のPE(体育)の授業ってなにやるの?」

僕「水泳とかバスケとか、運動会前になるとそのための練習とかもしてたな〜」

アメリカ人「運動会のための練習??」

僕「本番のための練習を一日かけてやってたよ」

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アメリカにも日本の運動会と同じようなイベントがあり、英語では「Field Day」と言います。

これは日本の運動会とはかけ離れていて、サッカーやリレー、二人三脚などの競技をやります。

 

紅組や白組というくくりではなく、チームや個人に賞が送られます。

これは単にアメリカと日本を比較したものですが、海外から見ると日本の運動会は少し変わった光景でもあります。

 

本記事ではそんな日本の文化を海外からの視点から、ポジティブな面とネガティブな面の両方から運動会を解説していき、日本と海外の文化の違いをご紹介しています。

 

日本の教育制度の特徴

 

そもそも海外の多くの国々と日本では教育制度が大きく異なります。

最近ではインターネットを通じて海外でも話題になっていますが、日本の学校においての掃除や給食の配膳などは海外では基本的にありません。

 

「学校というのは勉強をする場所」という特徴が強いせいか、日本の学校のような集団行動や社会的規範を教えることは珍しいです。

これは日本文化の素晴らしい点でもありますが、海外から見ると「行き過ぎているのでは?」という例も中にはあります。

 

教師による体罰やパワハラなどは論外としても、最近では極端に厳しい頭髪検査や服装チェックなどが言えるかもしれません。

このような海外と日本の違いが運動会にそのまま現れてもいます。

 

ということで、ここから「日本の運動会がなぜ異常なのか」ということをご紹介していきます。

 

①選手宣誓

出典:選手宣誓の右手

 

運動会には必ずと言っていいほど開会式と閉会式がありますが、この開会式で行われる「選手宣誓」は海外ではまずありえない光景とも言えます。

例えばこれはヨーロッパですが、右手をまっすぐ頭の上に伸ばす行為は「ナチス式敬礼」とも言われています。

 

ナチスとはあの有名な「ヒトラー」を指導者とする第二次世界大戦中のドイツの独裁政権ですが、これはまさに当時ナチスの軍隊がヒトラーや目上の人に対して行っていた敬礼と類似しているわけですね。

ドイツでは公共の場でこのポーズをすると本気で捕まります。

 

以前当ブログでドイツの歴史の授業をご紹介したときにも書きましたが、ドイツでは質問をする時に右手を上げる代わりに人差し指を必ず立てます。

これは「当時のナチス式敬礼を思い出させるから」という理由で徹底的に禁止にしています。

 

「なんでそれを日本で今もやっているの??」

これには諸説ありますが、「1936年にドイツで開催されたベルリンオリンピックでこのナチス式敬礼をドイツの選手がヒトラー総統閣下に対して行ったのを日本が輸入した」という説が濃厚です。

 

つまりこの軍隊式の敬礼を現在においてなんの疑問も持たずに続けているということですね。

最近では高校野球などの選手宣誓では右手を挙げずに行います。

 

2020年のオリンピックでも恐らく選手宣誓で右手を挙げて行うことはないと思いますが、地域の運動会やスポーツ大会などではこれを現在においてもやっているのが現実でもあります。

つまりヨーロッパや米国などの先進国からしてみると、「当時日本はドイツと同盟国だったのになぜそれを今でもやっているの?」ということになりますね。

 

②集団行動

 

 

上でも書きましたが、日本の教育制度は「社会的規範を学ぶ場所」という色合いが強いです。

これは海外の多くの国々ではなかなかなく、日本の文化において非常に良いものでもありますが行き過ぎている例もあるのが現実です。

 

上のツイートでもありますが、例えば人間ピラミッドや組体操などは「仲間と協力してみんなで達成する喜びを分かち合う」というのが本来の趣旨なのかもしれませんが、危険なのは言うまでもありません。

そもそもみんながみんなやりたいというわけではない中で、「全員でなにかを達成する」ということに意味がないとも言えますね。

 

③練習

 

そして、「みんなで同じ目標を達成する」というゴールを目指すためには練習はつきものです。

冒頭でも書いたように、現在日本の学校では運動会前の練習は恒例となっています。

 

本番前の練習では開会式&閉会式の行進、組体操などの出し物、最終的にはリレーなどの競技においても全員で練習を行います。

例えば、行進では全員が揃うまでやり続けたり、一人が輪を見出せばやり直しだったり、そんな訓練さながらのようなことを行います。

 

このような運動会の形は多くの国々ではまずありえません。

つまり全体主義が行き過ぎた結果、現代では異様な光景とも言える一体感を作り上げていると言えます。

 

そもそも運動会は子供のためのものであり、子供が楽しんで初めて成り立つもののような気もしますが、日本の運動会は「楽しむよりも全体行動を学ぶ行事」でしかないということがわかります。

 

そもそも誰のため?

 

 

「そもそも誰が望んでこれを生徒にやらせているの?」

 

つまりこのような疑問になりますが、保護者側からしてみれば当然組体操など危険なことはやらせたくないのは言うまでもありませんね。

学校側からしてみても現代において何かあったときの訴訟や問題などはできるだけ避けたいというのも言えます。

 

つまり保護者は「やめさせたいけど学校側が取り合ってくれない」と言い、学校側は「これを楽しみにしている保護者の方もいる」と言う矛盾している状況でもあります。

結論を言うと、運動会というのは「地域のための出し物」という色合いが強いからです。

 

歴史をさかのぼるとその起源が見えてきます。

 

江戸時代では「席書」という書道大会があり、これは寺子屋の子どもたちが書道を披露する地域の大イベントとして行われていました。

これが明治になると、日本全国において全体主義がさらに広がり全国の学校で運動会が行われるようになります。

 

しかし、この頃の運動会は今のとはかなり異なり、軍隊の秩序と規律をもたらすための「兵式体操」というものでした。

この頃から日本の運動会は軍隊的な様相が強くなっていき、「地域のための出し物」という文化が生まれていきました。

 

これが21世紀の現在においても続いているのが現実です。

出典:リスクしかない組体操がなくならない理由

 

 

 

「昔のソ連みたいだね」

日本の学校風景や体育の授業を見た筆者の友人はこのように言いました。

 

つまり、日本の学校は全体主義があまりにも残りすぎているとも言えます。

道徳教育や社会的規範を学校で学ぶのは素晴らしいことでもありますが、同時にそれが行き過ぎていて生徒だけでなく先生の負担にもなっているのが現代の教育現場の問題点でもあります。

 

そもそも運動会は子供が楽しんで初めて価値のあるものでもあります。

集団行動や組体操をやるのは良いかもしれませんが、これは「やりたい人だけがやればいい」だけの話かもしれませんね。

 

つまりクラブ活動やスポーツの一環としてやるには問題はないかもしれませんが、全員参加というのはやりたくない子供もいる中であまりにも負担が大きいというのが現実ですね。