【マンハッタン計画とは】原爆開発の裏側とその歴史的背景

【マンハッタン計画とは】原爆開発の裏側とその歴史的背景

 

第二次世界大戦末期アメリカは広島・長崎に原爆を投下しました。

この直後の8月15日に終戦を迎えるわけですが、この原爆投下は人類史上始めて核兵器が使われたこととして知られています。

 

これは日本人として忘れてはならない歴史ですね。

本記事ではこの「マンハッタン計画」について詳しく解説していき、原爆投下の歴史的背景やその裏側に関してもわかりやすく書いていきます。

 

マンハッタン計画とは?

 

マンハッタン計画とは第二次世界大戦中連合国であるアメリカ・イギリス・カナダが原子爆弾を開発&製造するために科学者・技術者を総動員した計画のことを言います。

「マンハッタン計画」というのは、計画本部がマンハッタンにあったためこのような名前になりました。

 

最終的に原子爆弾の開発・製造に成功したアメリカは日本本土に投下しました。

これがその後の人類の歴史を大きく変えることとなりました。

 

原子爆弾の基本情報

 

8月6日、広島にウラン型の原子力爆弾「リトルボーイ」が投下されました。

8月9日には長崎にプルトニウム型の原爆が投下されます。

 

この長崎の爆弾は当初福岡県の小倉市に落とす予定だったのですが、「八幡空襲」によって生じていた霞によって視界が悪かったため第2目標である長崎になりました。

この「ウラン」「プルトニウム」というのは元素のことですね。

 

これらの元素と中性子が衝突することによって莫大なエネルギーを発生させます。

このエネルギーを戦争に利用したものが「核兵器」です。

 

核分裂の発見

 

出典:ロバート・オッペンハイマー

 

この核分裂反応の仕組みが発見されたのは1938年のことでした。

原爆の発明をひどく後悔していたということで有名なのはアインシュタインですが、アインシュタインの最大の発明は「相対性理論」です。

 

この相対性理論が原子力爆弾と全く関係ないのかと言ったらそうではないのですが、実際にはそこまで関連してないのが現実のところです。

核分裂を発見したのはユダヤ系の科学者「ロバート・オッペンハイマー」という人物が原爆の父として知られています。

 

後に彼もこの発明を悔やんだということで知られています。

 

歴史的背景

 

1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵略し欧州で第二次世界大戦が勃発します。

その頃の日本は日中戦争真っ只中で中国戦線で戦争をしていました。

 

この頃からヨーロッパではナチスによるユダヤ人への迫害がひどくなっていき多くのユダヤ人科学者がヨーロッパからアメリカに亡命し始めます。

アメリカに亡命した科学者(アインシュタイン含む)の中から「ドイツが原子爆弾の開発をしているかもしれない」という情報が流れていき、当時のアメリカ合衆国大統領ルーズベルトにも手紙で注意喚起もしました。

 

このようなことから、アメリカは原子力爆弾の開発に全力を注いでいきます。

 

そして、1941年12月に日本がアメリカに対して真珠湾攻撃をします。

ここから太平洋戦争が始まりました。

 

マンハッタン計画の予算と人員

 

プロジェクトの場所

出典:マンハッタン計画

 

前述しましたが、アメリカはこのマンハッタン計画に科学者・技術者を総動員しました。

この計画に関わっていた労働者は約13万人いたとされ、このほとんどの人は「これがなにに使われるのかは知らなかった」とされています。

 

本当に原爆開発の全貌を知っていたのはごく一部だったということですね。

予算は約22億ドル、現在の日本円の価値にすると2兆8000万円ほどでした。

 

2兆8千万円と言われてもピンと来ないですね。

当時の日本も極秘で理化学研究所で「二号研究」という名で原爆の開発・研究をしていました。

 

その時の予算は現在の価値にして2000億円ほどで、科学者の動員数も数百人だったので、アメリカがマンハッタン計画にどれほど力を入れていたかがわかると思います。

「二号研究」という名前は当時この研究の筆頭であった科学者「仁科芳雄」の名前からつけられました。

 

仁科という人物は当初日本の原爆開発には反対の立場を取っていました。

というのも、当時の日本は圧倒的に物資が足りていなかったからです。

 

さらに「この戦争中に原爆の製造は不可能だ」と見ていました。

しかし、実際に広島・長崎に原爆が投下され現地調査に行った際には「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の研究者に対して大勝利を得たのである」と述べたと言われています。

 

あれだけの大規模な戦争をやりながら原爆の開発を成功させた「マンハッタン計画」がどれだけの規模だったかがわかるかと思います。

 

 

開発成功から投下

 

1943年5月に原爆投下の使用対象として日本が選ばれました。

1945年4月に当時の大統領で原爆開発を水面下で進めていたルーズベルト大統領が急死します。

 

その次の大統領であるトルーマンがこのマンハッタン計画を受け継ぎ、「最終スイッチ」がトルーマンの手に渡ります。

その直後である1945年7月に人類史上初である原爆実験(トリニティ実験)がニューメキシコ州で成功します。

 

様々な意見があった中で最終的に京都、広島、横浜、小倉が目標都市として選定されました。

そして8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆が投下され、罪のない市民が多数犠牲になりました。

 

そして現在

 

「マンハッタン計画」は第二次世界大戦、原爆投下までを知る上では欠かせないものです。

アメリカでは世界史・アメリカ史の授業では必ず勉強します。

 

また、英語では「Manhattan Project(マンハッタン・プロジェクト)」といいますが、これは現在でも日常的に使われることがあります。

「大規模な計画」という意味だったり、「時間をかけた計画だったけどなんの役にも立たなかった時」によく使われます。

 

私たち日本人にとってはいい響きではないかと思いますが、知ることは大事だと思います。

 

「アメリカでは原爆投下が正当化されている」

 

こんなこともよく言われますが、これはあくまで「政府見解」です。

実際には多くのアメリカ人も「原爆は必要なかった」という考えの方も多くいます。

 

実際にアメリカの歴史の授業では「なぜアメリカは原爆を投下したのか」「本当に必要だったのか」ということを徹底的に議論します。

 

「アメリカはどのように歴史を教えてるんだろう?」

 

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