キング牧師はアメリカの英雄です。
1月15日が彼の誕生日だったことから、アメリカでは1月の第三月曜日が全米で祝日となっています。
「具体的に何をした人なの?」
ということですが、アメリカに蔓延る「人種差別撤廃」に生涯全力を注いだ人でした。
本記事では、キング牧師がアメリカ国内でどのような偉人なのか、実際にどのような功績を残したのか、キング牧師の偉大さを5分で解説します。
キング牧師とは?
キング牧師は正式には「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」と言います。
「牧師」とついているのは、単純に牧師だったからですね。
アメリカでは彼の名を知らない人はいません。本当です。
学校の授業で徹底的に彼の功績を学びます。
日本でも歴史や社会、公民の授業で「キング牧師」の名前を聞いたことがある人も多いかもしれません。
歴史の浅いアメリカでは「キング牧師」は、日本でいう豊臣秀吉や坂本龍馬くらいの知名度です。
つまり誰でも知っているレベルです。
キング牧師の人生
キング牧師は1929年1月、ジョージア州・アトランタで生まれます。
父親は「バプティスト派牧師」で、幼いころから宗教に熱心な家庭で育ちます。
そんなこともあり、アトランタ市内にあるモアハウス大学というところを1948年に卒業し、そこから本格的に牧師になること道を決意します。
ちなみにですが、この「モアハウス大学」というところ、もともと「黒人男子のための大学」ということで設立され、他人種や女性は一切受け入れないという制度をとっていました。
現在ではさすがに、人種関係なく入学ができますが、今でも99%の学生は黒人ということになっています。
こちらの動画は、「黒人の大学で唯一の白人であること」という題名で、モアハウス大学に通う数少ない白人の学生を密着しています。
こんな感じで、アメリカには昔から今でもこのように「人種的離隔」があります。
さて、キング牧師の話に戻りますが、この大学を卒業後、ペンシルベニア州にあるクローザー神学校という大学院に入学、そこからさらにボストン大学の神学部でさらに博士号を取得します。
当時の人種差別とその背景
キング牧師の幼少期から青年期にかけてのアメリカでは人種差別が横行していました。
そもそも差別自体、悪いことではなく、「仕方のないことだ」といった考え方が主流だったのですね。
ちょうどこの頃は、第二次世界大戦もあり、日本が真珠湾を攻撃、太平洋戦争開戦、アメリカは日系人収容所というところを作り、アメリカ国民であるはずの日系アメリカ人は収容所送りになりましたね。
アメリカにはこのレベルの差別は日常茶飯事でした。
特にアフリカ系アメリカ人、つまり黒人は、自分たちがアメリカ大陸に来たかったわけでなく、もともと農業の「労働力」のため、「奴隷」として連れてこられた人たちでした。
しかし、19世紀半ば、アメリカはその奴隷制度廃止を巡って、南北に分かれ内戦を経験します。
この南北戦争は現在でも「アメリカ史最悪の戦争」と言われるほど悲惨なものでした。
最終的に北が勝利し、リンカーン大統領の「奴隷解放宣言」によって、奴隷制が廃止となります。
それが1863年1月1日の出来事です。
日本ではちょうど幕末で、薩英戦争が起きたのがこの年です。
奴隷を解放したリンカーン大統領ですが、その後奴隷解放反対派によって暗殺されます。
自由を手にした黒人たちでしたが、そこからさらに白人による差別がひどくなっていきます。
「KKK」と呼ばれる秘密結社が誕生し、黒人コミュニティーの虐殺が横行するようになりました。
この秘密結社を組織したのは、南北戦争に敗れた南軍の元兵士だったと言われています。
アメリカの人種差別はひどいものでした。
トイレは「白人」と「有色人種」に別れ、バスは黒人は後部座席に座ることが法律で義務付けられていました。
プールも白人と有色人種、学校が黒人の生徒を受け入れると言い出せば白人によるデモが起き、黒人が通う教会は燃やされる時代です。
こんな状態のアメリカですが、1900年代になり、キング牧師が誕生します。
キング牧師も6歳のころに、近所に住む白人の子供と遊んでいると、母親が来て「黒人とは二度と遊ばせません!」とキング牧師の親に宣言してきた、という話があります。
これがキング牧師が初めて、「人種差別を体験した時だった」とのちに話しています。
ボストンの大学に在学中も、キング牧師が飲食店に入ったときに黒人という理由だけで、店員が注文を取りに来なかったという話があります。
しかし、ボストンではこのような行為を州法で禁じていたため、その後その店員は人種差別として即逮捕になりました。
アメリカ南部出身のキング牧師は、幼少期から常にこのレベルの差別は経験していたため、警察が逮捕してくれることにむしろ驚いたと言っています。
人種差別反対運動へ
これが当時のアメリカの実態でした。
日常的に人種差別が横行していたわけですね。
そんな中、キング牧師は平凡に牧師として日々活動をしていました。
しかし、ある日運命が変わる出来事が起きます。
それが、1955年に起きた「ローザ・パークス逮捕事件」というものです。
当時、アラバマ州では、バスに乗った黒人は白人に席を譲るよう言われたら、譲らなければいけませんでした。
意味わからないルールですが、当時はそれがまかり通っていました。
そんな中、バスで白人に席を譲るように言われた黒人女性のローザ・パークスでしたが、それを拒否して最終的に逮捕されてしまいます。
これにキング牧師が怒ります。
周りの黒人コミュニティーを率いて、バスをボイコットしました。
バスには徹底して乗らず、歩いたり、自分たちの車で乗り合いしたり、この運動は全米に広がりを見せ大規模な運動になっていき、結果ローザ・パークス逮捕は違憲ということになり、逮捕を免れました。
この事件により、キング牧師はさらなる信望、人脈を得て、黒人指導者としての頭角を現します。
あくまで非暴力
キング牧師は昔から、「マハトマ・ガンジー」に影響を受けていました。
インドの独立運動を非暴力で訴えた人物ですが、キング牧師はこのやり方に感銘を受け自身もそれを実践するように人々に促します。
現在、警察官による非道なふるまいにより、全米で暴動が問題になっています。
「今こそキング牧師のやり方を」という人も多くいるのですが、現代において彼ほどの人望や信頼、リーダーシップのある人はアメリカにはいないのが現実かもしれません。
それほど、当時黒人差別に怒っている方々を非暴力でまとめていくというのはすごいことでした。
逆に言えば、キング牧師は非暴力で平和的なデモを行うことがどれだけ暴動よりも効果的なのかがわかっていたのかもしれません。
こんな画像がインターネットで出回っています。
上はキング牧師の時代、下は現代のデモ活動=犯罪、という皮肉を現した画像です。
キング牧師だったからこそ、みんな非暴力で戦っていこうと団結できたのかもしれません。
ワシントン大行進
こうしてキング牧師の差別撤廃の運動は徐々に規模を大きくしていき、1963年にはアメリカの首都・ワシントンDCで大行進を行い、約30万人の前でスピーチを行いました。
それが超有名な「I have a dream」のスピーチです。
「私には夢がある」ですね。
繰り返しになってしまいますが、アメリカではこのスピーチを知らない人はいないと言ってもいいくらいです。
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「す
べての人間は平等に作られているということは、 自明の真実であると考える」というこの国の信条を、 真の意味で実現させるという夢である。 私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。
こうして、1964年に「国を挙げての人種差別をやめましょう」という法律が作られました。
「公民権法」ですね。
この一連の流れを「公民権運動」と呼びますが、この後の1968年にキング牧師は白人至上主義者に暗殺されてしまいます。
この暗殺を受けて、またアメリカは分断します。
全米で大規模な暴動が発生し、それまで非暴力を訴えていたリーダーをなくした黒人運動家たちはまとまらなくなり、国はさらなる人種間の問題を目の当たりにすることになります。
そして、2020年になった現代においても警察官による黒人に対しての非情な振る舞い、人種差別はなくなっていません。
そして今回起きている暴動は「キング牧師暗殺以来の大規模な暴動」と言われています。
この人種間の問題は深すぎて、すぐには解決できそうもないというのが筆者の見解です。
以下の記事では、アメリカの人種問題に関してさらに深く解説しています⇩
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