【黒歴史】ベトナム戦争とは?アメリカの敗因はこれです

【黒歴史】ベトナム戦争とは?アメリカの敗因はこれです

 

当サイト「ミナトのすゝめ」はアメリカの文化、歴史、政治に特化した情報ブログです。

過去の記事ではベトナム戦争以外にも、アメリカの歴史「ほぼすべて」をわかりやすく解説しています。

 

気になった方は本記事を読んだあとに以下から一読お願いします⇩

 

 

ということでここでは「ベトナム戦争とは?」ということで、この戦争について「アメリカの敗因」も含めわかりやすく解説していきます。

 

ベトナム戦争⇨代理戦争

 

 

ベトナム戦争とは1955年から1975年まで、なんと20年間続いた南ベトナム(資本主義)と北ベトナム(共産主義)との間の内戦を言います。

これは「冷戦の一部」とも言われています。

 

というのも、第二次世界大戦後すぐに資本主義圏(アメリカ)と社会主義圏(ソ連)で世界が2つに別れます。

政治的イデオロギーの違いからですね。

 

 

今日朝鮮半島が韓国と北朝鮮で分裂しているのも、この冷戦から始まっています。

というのも、1945年8月に日本がポツダム宣言を受け入れて第二次世界大戦が終結しますが、その直後に朝鮮半島はアメリカとソ連によって南北で別れてしまいました。

 

終戦から5年後の1950年にはこの韓国(アメリカなど)と北朝鮮(ソ連と中国)の間で戦争が起きました。

これがいわゆる「朝鮮戦争」というものですね。

 

つまり朝鮮戦争はアメリカとソ連という超大国同士の戦争でした。

しかし超大国同士が真正面から戦争を行うのではなく、代わりに小国が戦争をするという「代理の戦争」だったということですね。

 

この1955年にベトナムで起こった戦争もアメリカとソ連の「代理戦争」でした。

ではここからさらに詳しくベトナム戦争が起こるまでの経緯を見ていきましょう。

 

北ベトナム VS フランス

 

「え、フランス?」

と思う方もいるかと思いますが、ベトナムは1887年から第二次世界大戦までフランスの植民地でした。

 

1939年にドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まるとその翌年である1940年にフランスがドイツに降伏します。

これにより、日本もベトナムにおいての進駐が許され、ベトナム及び、フランス領インドシナ地域は日本の「南方戦略」の重要な拠点となります。(仏印進駐)

 

そして1945年に日本が降伏すると、すぐに「ホーチミン」がベトナム民主共和国という共産主義国家の独立を宣言しました。

ここでフランスがまたベトナムに帰ってきて、割り込んできます。

 

ベトナムの独立を喜ばないフランスは南ベトナムに傀儡国家を設立します。

そして第二次世界大戦終結の翌年である1946年に北ベトナム(ホーチミン)と南ベトナム(フランス)の間で「第一次インドシナ戦争」が勃発しました。

 

1954年まで8年続いたこの戦争は北ベトナムの勝利に終わりました。

フランス軍ははるか遠くの東南アジアにあるベトナムの土地勘などあるはずもないので当然と言えば当然かもしれませんね。

 

ここから北ベトナム軍はベトナムの地形を利用した「ゲリラ戦」を得意としていきました。

この戦争でジュネーヴ協定というものが締結されます。

 

これは「とりあえずベトナムは南北に分けて徐々に統一を目指していこう」というものでした。

つまり結果としてベトナムは南北に分断され、それに伴い多くの兵士とその家族も分断されることとなったわけですね。

 

 

ベトナム戦争

 

 

ベトナム戦争は第二次インドシナ戦争とも言われています。

第一次インドシナ戦争は上でご紹介している「北ベトナムVSフランス」の戦争ですね。

 

ジュネーヴ協定で南北に別れたベトナムでしたが、南にはアメリカの息のかかった「ゴ・ディン・ジエム」という人物が反共産主義を掲げていました。

しかしジエム政権は独裁政治で共産主義者や反政府の人間をどんどん弾圧・殺害していきます。

 

これに対してホーチミン政権率いる北ベトナムは「南ベトナムを独裁政権から開放する」という大義名分のもと南ベトナムへの攻撃を開始します。

 

アメリカの介入

 

当時のアメリカにはドミノ理論という考え方がありました。

一つの国が共産主義になればその地域にある周りの国も共産主義になってしまうという考え方です。

 

東欧革命やアラブの春などの歴史的事実を見るとこの理論がわりと当たっているというのがわかりますね。

他にも「核ドミノ」という言葉もあります。

 

こんな理論もありアメリカはベトナム戦争への本格介入を議論し始めます。

そんな時に起こったのが「トンキン湾事件」でした。

 

トンキン湾事件とアメリカの思惑

これは1964年に北ベトナム海軍がアメリカ海軍の駆逐艦を魚雷攻撃した事件です。

 

これによりアメリカはベトナム戦争への本格介入の「大義名分」を手に入れることができました。

なんか聞き覚えのあるような話ですね。

 

まさに「真珠湾攻撃」や「同時多発テロ」と同じような戦争介入の仕方ですが、実際にそのあとの1971年のニューヨーク・タイムズの記事で「2回目の攻撃に関してはアメリカ政府の捏造だった」ということが暴露されています。

 

つまりアメリカ政府はベトナム戦争にどうしても介入したかったわけです。

いまさらですが、アメリカは怖い国です。

 

泥沼から敗北へ

 

「アメリカはベトナムに負けたというよりも”勝てなかった”だけだ」

 

よくこのようにも言われますが、ベトナム戦争に関して言えばアメリカは100%敗北しています。

というのも、アメリカはベトナム戦争において250万人以上の兵士を動員し、戦死者5万人以上出しています。

 

つまりアメリカはわりと全力で戦いました。

それにも関わらずベトナムにおいて社会主義政権の樹立を許してしまいます。

 

その敗因はどこにあったのでしょうか。

 

北爆の開始

出典:ベトナム戦争

 

上でも書いてあるように北ベトナム軍は徹底した地理感と地形を利用した「ゲリラ攻撃」でアメリカ軍を圧倒しました。

これにより我慢できなくなったアメリカ軍は北ベトナムに対し大量の「爆撃」を開始します。

 

大量と言いましたが、本当に北ベトナムの地域ごとすべて焼き払うかのように行われました。

 

その爆弾は合計で250万トンにも及びます。

第二次世界大戦で日本全土に落とされた爆弾は13万トンだったので、それがどれだけの量かわかりますね。

 

北ベトナムだけでこの量なので、まさに「血も涙もない」ような攻撃です。

 

北爆から枯葉剤へ

出典:枯葉剤の恐ろしさ

 

これだけの爆撃を行っても戦況は良くなりませんでした。

むしろ南ベトナム軍(アメリカ軍)は前線を押し返され首都であるサイゴンが墜落されかけます。

 

そんな時にリチャード・ニクソンという人物がアメリカ合衆国の大統領に就任します。

そこで当時アメリカ国内で徐々に反戦運動が起きていたこともあり大量の費用がかかる爆撃を中止します。

 

その代わりに使われたのが「枯葉剤」というものでした。

これはジャングルや森の中でゲリラ戦を展開する北ベトナムの戦略を封じるために「焼き払う」のではなく、「すべて枯らしてしまえ」という考えから使われたものでした。

 

これには大量のダイオキシンが混ざっていて人体にも恐ろしい影響がでる毒薬です。

酷いものですね。

 

これを浴びたベトナム人の中にはB型&C型肝炎や腎臓病などの深刻な病気を発症した人も多くいました。

またこの犠牲になったのは大人だけでなく、子供、ましてや生まれてくる胎児にも影響を与えました。

 

ベトちゃん、ドクちゃんという二人の下半身がつながって生まれてきた結合双生児がこの枯葉剤の恐ろしさを世界に伝えました。

アメリカはこれについての謝罪は一切していません。

 

アメリカの敗因

 

士気の違い

ここまでわかるようにアメリカの残虐非道な行いは北ベトナム兵士の士気を高めるだけでした。

 

「アメリカがはるばる東南アジアの地までやってきて酷い行いをしている」

 

これだけで国際社会の意を得られないのは見えていますね。

さらに言えば、北ベトナムはすでにフランスと戦い勝利を掴んでいます。

 

それにも関わらずベトナムが分断されることに不満しかありませんでした。

さらに言うと、ホーチミンに対する北ベトナム国民の信頼が厚かったのも言えますね。

 

南ベトナム=傀儡国家

南ベトナムはアメリカによって作られた「傀儡国家」です。

 

さらに独裁政権でもあります。

そんな南ベトナムの中には賄賂などで北ベトナムに兵器や物資を横流しして私腹を絶やす人間もいて腐敗していたのが現実でした。

 

反戦運動

ベトナム戦争ではヘリコプターが大活躍しました。

 

さらにこの頃からレーダー、センサー付きの爆弾、マイク、無心通信装置などが戦場で活躍するようになりました。

それと同時に戦争がメディアによってテレビ中継されるようになったのもこの頃からです。

 

それによって何が起きたかと言うと、アメリカ国民はそれまで知らなかった戦争の悲惨さを目の当たりにします。

 

第二次世界大戦までは「アメリカが介入する戦争は正義だ」というような、ある種「信頼」のようなものがありました。

しかし実際にフタを開けてみると、捕虜への残虐行為やベトナム市民の大虐殺など、アメリカ軍の非道な行いが明らかになったのがこのベトナム戦争のときでした。

 

これにより反戦運動が国内で起こり始めます。

この国内の反戦運動は戦地で戦っている兵士たちに多大なる影響を与えました。

 

なにも知らない地に派遣され、これだけの長い期間戦争をやって、さらにはどこから撃たれるかもわからない、そんな状況で戦っているのにも関わらず国民は支持してくれない、むしろ「非人道的」というレッテルまで貼られてしまうありさまです。

 

アメリカ軍兵士たちの士気が下がるのは当然ですね。

 

 

統一から今日まで

 

こうしてアメリカ軍は1973年にベトナムから撤退します。

そのわずか2年後には南ベトナムは負け、ベトナムが統一されました。

 

首都はサイゴンになり、そのサイゴンは指導者の名前をとって「ホーチミン市」となりました。

現在でも首都には「ホーチミン」の銅像が立っています。

 

ベトナム全土での死者数は数百万と言われていて、その多くは市民だったというのが現実です。

 

悲惨な戦争だったということがわかるかと思います。

現在でもベトナムでは政治的分裂があったり、南と北では文化が多少異なります。

 

アメリカとベトナムに関しては1995年に戦後初めて国交を回復しました。

筆者は現在アメリカにいて、ベトナム人の友達が何人かいますが、今でもベトナムの方々はアメリカへのビザは圧倒的に取りづらくなっています。

 

これはベトナム戦争が残したものですね。

ちなみですが、ベトナム戦争当時日本は高度経済成長にありました。

 

経済用語の中には「戦争特需」という言葉がありますが、ベトナム戦争が当時の日本に与えた影響を以下の記事で詳しく解説しています⇩