神道 46.5%
仏教 48.1%
キリスト教 1.1%
その他 4.3%
文化庁の統計によると、日本の宗教はこのような割合になっています。
わかるようにキリスト教は1.1%にしかすぎません。
隣の韓国ではキリスト教徒の割合が30%近くを占めており、仏教徒よりも多くなっております。
日本ではなぜキリスト教が浸透しなかったのでしょうか。
本記事ではそのへんの疑問に関して詳しく解説しています。
日本のキリスト教
日本史でもさんざんやるかと思いますが、日本にキリスト教が伝来したのが応仁の乱でボロボロになった、戦国時代真っ最中の時代ですね。
フランシスコ・ザビエルという人物です。
戦争ですべてを失ったザビエルは、遠くヨーロッパにて、6人の仲間とイエズス会というチームを結成し、世界中にキリスト教を広める活動をはじめます。
ザビエルは元々インドで布教活動をしていました。
そんな時に「人を殺してしまった」という者に出会います。
これが「アンジロウ」という日本人です。
このアンジロウは遠い島国・日本の鹿児島からはるばるマレーシアに逃亡中だったのですが、ザビエルに出会い、救いを求め、キリスト教に改宗します。
そこからこの二人は日本に渡り、布教活動を始めます。
当時の日本は戦国の世、「戦で人を殺してしまった」、「家族を守れなかった」、こんな人々に「神は第二のチャンスを与えてくれる」ということから日本の九州地方を中心にキリスト教が広まり始めました。
それだけなく、通訳であるアンジロウが「インドから来たお坊さんです」という説明をするものだから、余計にややこしい誤解が生まれてしまいます。
当時は「宣教師」、「司祭」なんていう概念が日本語にはなかったので、「お坊さん」と言ったわけですが、日本の僧侶たちは「仏教の本場、インドから偉い人がやってきた」というように理解しました。
ザビエルのヘアスタイルもなんとなくそれっぽいので、みんな信じてしまったわけですね。
こうして日本にもキリスト教徒が増え始めました。
そんなキリスト教でしたが、2020年現在の日本では、わずか1%のすぎないほどになってしまいました。
それはなぜでしょうか。
ここからその理由について見ていきましょう。
①バテレン追放令
キリスト教が広まる好機というのは、どの国においても同じです。
国が戦乱で大変な時であったり、経済的に混乱しているとき、ですね。
日本史でいうと、戦国時代、幕末&明治維新、第二次世界大戦後、これらが布教の好機でもありました。
まずは戦国時代から見ていきましょう。
前述したように、ザビエルが日本に来て、キリスト教が一気に広まったのが戦国時代でした。
そこからどんどん影響力を伸ばしていき、最終的にザビエルは「キリスト教徒代表」として、当時日本の半分を治めていた織田信長と会うこととなります。
信長も当時反発の多かった仏教勢力に抵抗するため、西洋の技術を取り入れるためにザビエルに興味を持っていたからですね。
こうして、信長はすんなりと日本国内においてのキリスト教布教を認めます。
しかしこの数年後、本能寺の変で信長が亡くなり、日本の統治は実質的に豊臣秀吉のものでした。
日本統一を目前にした秀吉は世界情勢を気にします。
こちらの記事でも詳しく書きましたが、当時ヨーロッパ勢力はアジアにも進出し、植民地支配を伸ばしていました。
日本もヨーロッパ諸国の植民地になることを秀吉は恐れています。
当然ですね。
実際に植民地支配の第一段階は宗教の布教というのが常套手段となっていました。
そんな時に日本においても九州の諸大名がキリスト教に改宗し、自分たちの領地で寺社仏閣を破壊し教会を建てたり、領民をキリスト教に無理やり改宗させたりやりたい放題やっていました。
そんな状態の時にヨーロッパから艦隊がやってきたら、キリスト教大名たちは当然秀吉の命令など聞かず、ヨーロッパ諸国に自分たちの領土を受け渡すことを秀吉は最も恐れていました。
そうなってしまった場合、秀吉は朝敵となり、日本はヨーロッパ諸国の植民地になってしまいます。
実際にこれで東南アジア諸国はヨーロッパ諸国の植民地になっていました。
そこで秀吉は諸大名によるキリスト教の改宗を許可制にし、庶民に無理やり改宗を求めるのを禁止にしました。
これを「バテレン追放令」と言います。
②キリシタン禁制
「戦国時代にキリスト教が広まらなかった理由」というのを解説しましたが、ここでは「幕末・明治維新の時にキリスト教が広まらなかった理由」に関してです。
戦国時代が終わり、江戸時代を迎えることになる日本ですが、徳川幕府の時代、日本は平和な時代を迎えます。
基本的には秀吉の方針を継ぐことにした徳川家康ですが、キリスト教に対しての態度も同様、諸大名がキリスト教に改宗することと、庶民に対して無理やり改宗を求めるのを禁じていました。
そこからそのルールは徐々に厳しくなり、有名な「鎖国令」とともに、「キリシタン禁制」というのが敷かれます。
これにより、キリスト教信者に対し厳しい迫害が始まります。
「隠れキリシタン」というのは、この時代のお話で、隠れキリシタンが多かった長崎には、今でもたくさんの資料が置いてあります。
映画「沈黙」はまさにこ江戸時代の隠れキリシタンのお話です。
これが明治維新後、1873年まで続きました。
廃止の理由としては、西洋諸国の圧力があったからですね。
「近代化を進めるなら宗教の自由を認めるべきだろ」
こんな感じですね。
ですが、長く続いた禁制の効果もあってか、この時代の日本でもやはりキリスト教が布教しませんでした。
③国家神道
さて、続いては第二次世界大戦後のお話になります。
第二次世界大戦で焼け野原となり、日本史上これほどにないほどボロボロになった日本、キリスト教が広まっても当然のような気もしますが、ここでもやはりキリスト教はあまり広まりませんでした。
少し時代を戻して、明治から昭和初期にかけての日本では、キリスト教は「日本の国体や伝統に反する」という主張が強くありました。
「近代化を進めるなら宗教の自由を認めるべきだろ」
上でも書いたように、欧米諸国の圧力もあり「信仰の自由」を認めた日本でしたが、明治も中期から後半になると神道が事実上の国教となり、学校でも「道徳教育」という名の下で教育勅語や日本神話などを用いて、天皇陛下を信仰の対象としました。
明治の時代において、日本の統一、揺るぎない中央政府の確立に便利だったからですね。
第二次世界大戦に突入するとこの思想もどんどん過激になり、神道絶対主義が日本全体において強制され始めます。
神道の教育=道徳教育=日本人として持つべき思想
こんな感じになります。
戦争後もこの思想は、国民の間からすぐになくなるわけもなく、ある程度続きました。
これが戦後において、キリスト教が日本で広まらなかった理由です。
④日本的文化
「先週の日曜日に神社まで散歩してお参りした」
「お盆休みのタイミングで祖父母のお墓にお参りしにいった」
こんな話はごく日常ですが、これは前者が神道で、後者が仏教でもあります。
これと同じように、「先週の日曜日に教会に足を運んだよ」という人も日本にもわりと多くいます。
むしろ、「メリークリスマス!」と祝う人もいれば、教会で結婚式を挙げる人も日本にはたくさんいます。
ですが、これだけだと「あなたはキリスト教ですか?」と実際に聞かれたときに「No」と答える人が大半だと思います。
だからこそ、統計上では1%に過ぎないのです。
これはかなり日本文化的な感覚です。
「洗礼を浴びた」とか、「改宗した」という人が1%なだけであり、こういった「ちょっとしたキリスト教徒」は日本にもたくさんいるのが現実です。
アメリカでは「年に一回くらいしか教会なんて行かないよ」という人でも宗教を聞かれれば「キリスト教」と答える人は多くいます。
こういった文化的な違い、寛容さが日本にはあるのかもしれませんね。
⑤カルト宗教
「たまに教会に行くよ」
上でも書きましたが、日本にもこういう方は多いのではないでしょうか。
これだけでなく、キリスト教を「学問」として勉強している方や、「聖書を読んだことがあるよ」という人も結構いると思います。
実際に皇后陛下や皇太子妃殿下がカトリック学校の出身であったり、秋篠宮家の二人の親王もキリスト教系大学で学んだなど、皇室との縁もありますね。
このように日本ではむしろ、教育や文化、社会事業には広く浸透し、社会的影響力が強いと言えます。
ですが、「改宗」となると、ハードルが一気に高くなるのが現実ですね。
「規律を守らなければいけない」
「毎週教会に通わなければいけない」
こんな不安を抱える人も多いのかなとも思います。
さらには「ちょっと違ったらどうしよう」「なんか怖いな」というような不安もありますね。
これは「オウム真理教」をはじめとするカルト宗教などへの警戒心も日本にはあります。
これが「日本に宗教が広まらなかった」最後の理由でもあります。
とういうことで、本記事では「日本でキリスト教が広まらなかった5つの理由」を詳しく解説してきました。
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